稲むらの火
トップ 人物紹介 稲むらの火 A LIVING GOD 資料室 著作集 賛同者 リンク集
サイトマップ
津村建四朗氏(地震調査委員会委員長) >> 津村氏「稲むらの火と広村堤防」 | 津村氏「地震に学び、忘れず、備える」 | 地震津波防災教育の原点 | 巻頭随想 「稲むらの火」-実話とフィクションから学ぶこと | 「稲むらの火」 --忘れないだけでは津波災害は防げない-- | 「稲むらの火」−フィクションと実話から学ぶ津波防災一 | 津波から人びとを救った稲むらの火〜歴史マンガ・浜口梧陵伝

p.007

平成23年の新学期より光村図書出版の小学校五年生国語教科書に「稲むらの火」の事が掲載されます。 「津波から人びとを救った稲むらの火〜歴史マンガ・浜口梧陵伝」(文溪堂発行)には、教科書の著者の河田惠昭先生の架空防災対談も掲載されています。 又、津村建四朗先生の下記の解説が大変参考になります。
   
表紙の説明(画 クニ・トシロウ)
企画 NPO法人・環境防災総合政策研究機構
定価1260円
発行(株)文溪堂
〒112-8635 文京区大塚3-16-12
   TEL:03-5976-1511
   FAX:03-5976-1518

【解説】 実話とフィクションの「稲むらの火」から学ぶこと

                                津村建四朗

この本は、フィクションの「稲むらの火」のもとになった実話の主人公浜口梧陵(儀兵衛)の生涯を歴画(歴史マンガ)として描いたものです。みなさんは、この本を読んで梧陵がどんな心をもった人で、村人を救うために何をしたのかを知るとともに、地震や津波にどう備えなければならないかを学んだでしょう。
 実は、梧陵の実話よりも、それをヒントに、みなさんもよく知っているラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が創作した物語「生き神様」やそれをさらに小学生にも読める教材に書き直した「稲むらの火」の方が、以前からひろく知られています。教材を書いた中井常蔵は、広村の隣町の生まれで、梧陵が村につくった「耐久社」から発展した耐久中学校の卒業生です。師範学校でハーンのこの作品を学び、大変感銘して、小学校の先生になったときに、「稲むらの火」を書きました。これは、昭和12年(1837年)から約十年間国語読本に載せられて全国の小学生に読まれていきました。
150ページに、「稲むらの火」の全文を載せていますので、読んでみましょう。短い文章ですが、まるで自分がその場にいあわせたかのように、緊迫した光景が頭の中に浮かぶことでしょう。また、これまで読んできた実話とは大変違っていることにも気づいたでしょう。ハーンが「生き神様」を書いたのは、二万二千人の犠牲者を出した明治29年(1896年)の三陸大津波の直後でした。ハーンは、このときの出来事と、稲むらに火を放って村人を救った梧陵の逸話とをヒントに、梧陵のような人がこのような場にいあわせたら、こうしただろうとイメージをふくらませて、一気にこの感動的な物語を書き上げたのだと思われます。ハーンの原文は英語で書かれていて、教材よりずっと長いのですが、物語の流れは「稲むらの火」でよくわかります。
それでは、実話と「稲むらの火」(以下「稲むら」と略します)をくらべながら、これらから学び、津波災害の防止軽減に生かしたいことをすこし書いておきたいと思います。
 「稲むら」の地震は、「今の地震は別に烈しいという程のものではなかった。しかし、長いゆったりとしたゆれ方と」というように弱いゆれでした。ハーンの執筆の契機となった明治の三陸沖地震では、三陸沿岸でも、震度が2から3程度の弱いゆれにすぎなかったので、だれも津波を予想していなかったところに大津波が襲い大被害となりました。このように断層運動が大きいのにゆっくりすべるためにゆれの小さいタイプの地震を「津波地震」とよびます。ふつうの大地震でも震源地から遠くはなれた場所ではゆっくりした長く続くゆれを感じます。スマトラ沖地震の際も、タイやマレーシアではそのようなゆれを感じていました。「ゆれが長く続く地震を感じたときは、津波に注意する必要がある」という知識があったらどれだけの命が救われたことでしょう。一方、梧陵が体験した実話の安政南海地震のゆれは、「瓦飛び、壁崩れ、塀倒れる」激しいゆれでした。海岸付近でこのような強いゆれを感じたら津波が来ると考えてすぐ避難する必要がありますが、当時も今もすぐに逃げない人が結構います。梧陵もそのような人びとの避難をうながすために町をまわっているうちに自身も津波に襲われ、あやうく逃げのびています。
「稲むら」で一番印象的な描写は、津波に先立つ急激な引き潮の情景です。「異常な引き潮は津波の前ぶれ、すぐに避難すること」という知識は正しく、スマトラ沖地震でも、古くからのそのような言い伝えを守って現地住民が迅速に避難したためにほとんど死者を出さなかった島々があったと報じられていました。
 けれどもその一方で、「『津波の前には必ず潮が引く』というのが間違いである」ことも覚えておかなければいけません。津波を起こす地震の断層運動次第で海底がもりあがることも沈みこむこともあり、どこからの波が最初に到着するかによって、潮が引く場合も引かない場合もあります。(なお、この歴史マンガでも、「稲むらの火」同様な引き波の情景が描かれていますが、梧陵の手記など当時の記録には顕著な引き波の記述はありません。)「引き潮がなければ津波はこない」というのは誤りです。ですから、強いゆれを感じたり、津波警報・注意報をきいた場合に、引き潮をたしかめてから逃げればよいと考えるのは危険です。
 稲むらに火をつけたことは、「稲むら」と実話に共通の出来事ですが、その意味は大きく違います。実話では、津波の第一波が引いた後、暗やみにとりのこされた人たちに逃げ道をしめすために燃やしたものでした。一方、「稲むら」では、津波がくる前に、それを予想して、とりいれたばかりの稲むらに火を放って家が火事であるように見せかけて村人を高台に誘い、全員を救います。ところで、なぜ若者だけでなく、老人も女も子供もかけつけたのでしょうか。ハーンの原文を読むと、津波の話に入る前に、日本の昔の村では、火事があった場合には村人全員が消火にかけつけるのが一番重いきまりであったと書かれています。これで五兵衛は、かならず全員がかけつけてくれると思って火をつけたのだ、そして全員がきまりを守ったために自らが助かったのだということがわかります。実話でも、津波の後、村人たちは梧陵に感謝しながら力をあわせて自分たちの村を守る堤防を築きました。当時の方が、今でいう共助(助け合い)の精神が徹底していたともいえるでしょう。その一方、津波の襲来がさしせまっている状況では、避難の基本は、自分のことは 自分で守る(自助)であることもまたたしかです。
「稲むら」で、村人に危急をしらせた「山寺の早鐘」にも注目したいと思います。火事に気づかなかった村人がいても、このわかりやすい緊急信号をきけば、すぐに「火事はとこだ」とあたりを見まわしたに違いありません。最近は防災情報を伝える手段はいろいろとすすんでいますが、全員に単純明解に伝えるという点では、当時の方がすぐれていたようにも思えます。近年、気象庁が津波警報や注意報を出しても、避難しないばかりか、かえって海岸に見物にいく人も多いとききます。正しい知識を持ち、ルールを守った行勤が自らの命を守るのだということを忘れないようにしましょう。
ハーンの原文にも「稲むらの火」にも、この本で読んだ実話の梧陵が行ったもっとも重要な業績である私財を投じた堤防建設のことは書かれていません。ハーンは、「これで四百の命が助かるのだ」ととりいれたばかりの稲むらを燃やすという行為におきかえて、その崇高な精神を表したのだとおもわれます。
幕末の小さな海辺の村でおこった出来事は、ハーンの創作意欲をよびおこし、この短い作品を生みだしました。これは、今後も日本だけでなく、世界中の人びとに読まれ、感動を与えつづけるに違いありません。
みなさんも実話とフィクションの両方から多くのことを学び、人の生き方や防災への取り組み方について自分で考えてみてほしいと思います。

「津波から人びとを救った稲むらの火〜歴史マンガ・浜口梧陵伝」P147〜149より 本の表紙、文は、文溪堂、及びNPO法人・環境防災総合政策機構の許諾を得て掲載しております。
p.007

(c)2001 Study group of Inamura-no-Hi. All rights reserved.
本サイト上に含まれる文章・画像・意匠は、関係者より本サイトにのみ特別に使用を許可されたものなので、無断転載を厳禁といたします。